▲ 互いにもたれつつ・・・ひそやかに寄り添うような五輪塔の墓石たち。
そこで、彼女は浅草の観音様を、「私のお寺」に選んだ。亡母が周期的に夢枕に現れはじめると、わたしに救いを求める。
「アシタアサクサイコウナ」
観音様の前で、観光客にもまれながら、額に線香をかざし、ひとしきり母親と語り合うと、彼女の気は晴れる。 (近藤紘一 著 『サイゴンから来た妻と娘』 より)
自分自身も鑑みて、他人(ひと)の非常識な振る舞いをみせられると嫌になる。できることなら常にこころは清澄にいたいものだが、他人を省みないその振る舞いに憎悪に似た想いが沸々とこころの底から沸いてきて、自分のこころまでも貧しくなるのがよくわかる。
やがて、
山中の酷道を駆け上がったわたしは、弘法大師 空海を開祖とする高野山 金剛峰寺に辿り着いた。弘法大師御廟を擁する奥の院散策へと足を向ける。線香の匂い漂う涼しげな空気のなかで、わたしが心惹かれたのは大師のありがたい教えではなく(ぉぃ、樹齢千年を越える杉木立でもなく(朝靄にかかる奥の院はさぞかし幻想的だろうなー)、杉木立の足元でひっそりと身を寄せ合うように佇むお地蔵さんと五輪塔の墓石たちだった。
うむ。あちらのお地蔵さんは角刈りなのに、こちらのお地蔵さんはそこはかとなくえなりかずき君チックな佇まい・・・いや、むしろえなりかずきが地蔵そのものだと。ふむー。
まだ雪残る4月の高野山で、しばしの時間、地蔵を愛で苔を愛でるのだった。