巨大な女神大橋の下をくぐり、三菱重工100万トンドックを左に見て、右に高島が見えたら、軍艦島はすぐ目の前に・・・。 間近に見る軍艦島は、だいたいこのぐらいの大きさだろうなーと過度な期待をしないまでも想像した、まさしくその通りの大きさ(=感動)だった。
島の東側に船を泊めて、しばしの鑑賞タイム♪ とても全景を1枚では収められないので、後でパノラマ画像にすることを見越して3分割に撮影。それでも島の先端?部分が見切れてしまった(泣) いやはや南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m の島に、最盛期で約5,300人の人が住んでいたというのだから驚きだ。当時の東京の9倍!?の人口密度だとか・・・。
そんな狭い島のなかで、人々がどんな社会を築き、どんな生活をおくっていたのか思いを馳せる・・・。高層鉄筋アパート群の建物が島の端まで来ているので・・・例えば、島の北東端に位置する端島小中学校(上画像の下端の白っぽい建物)は、グラウンドで野球でもしたら、何個ファールフライで海にボールを無くしたことだろう・・・とかそんなどーでもいいことを考えてしまった。
上画像で、こちら側に向けて見えている島の東側は、石炭採掘の為の会社施設が建ち並んでいたらしく、そこで働く島民の住居は、島の向こう側、西半分に集められている。塀が島全体を覆い、高層鉄筋アパートが建ち並ぶその外観が軍艦 「 土佐 」 に似ていることから 「 軍艦島 」 と名付けられたが、事実、米軍の潜水艦が端島(軍艦島)に向かって魚雷を撃ったことがあるとか・・・。しかし、これは島を軍艦と見間違えたのではなく、桟橋に接岸した石炭運搬船に向けて撃ったのが真相だとガイドのおじーさんが語っていた。
島の真ん中からやや後方あたり、端島神社の祠が見える。危険と隣り合わせの炭坑夫の心のよりどころとなっており、全島を挙げての盛大な祭りが行われたとある。島にはこの他にもプールがあったり、病院、共同浴場、郵便局や理髪店も設置され、ライフラインも完備*1 されていた。海上に浮かぶちょっとした城塞都市の様相を呈している・・・。
取り留めのないはなしを列記したが、次の記事以降でもう少し詳しく見ていけたらと考えている。
*1・・・1918(大正7)年、高島から海底ケーブルが敷かれ、送電された。1957(昭和32)年、対岸の三和町から6,500m もの海底送水管が敷かれ、送水されるようになった。昭和30年代からは、かまどに代わり、プロパンガスが利用されるようになったとある。