自称ダンシング・ソゥソゥ(客引き)に誘われて、郊外のGH(ゲストハウス)に投宿。そこは町?村?の中心部から少し離れたところにある閑静なロッジ?という印象で、3USドル(朝食付き)という料金の割には掃除の行き届いた小綺麗な安宿で、以降もわたしの常宿となった。
たまたま先客の日本人が1人泊まっていた。その、わたしよりも少し年上のK さんに連れられて、日本人学校に見学に行こうということになった。K さん曰く、「 日本人学校の先生の名前を聞いたときに笑ったら駄目ですよ。 」 とニヤニヤしながら釘を刺すので、だいたい察しがついたが、その初老の紳士が流暢な日本語で、「 ワタシノナマエハ ウーマンコー デス 」 と仰られるのを聞くと、覚悟はしていたものの笑いをかみ殺すのに必死だった。ビルマ語で、ウーは年上の男性に対する敬称で、ウー・マウン・コー 先生ということだった。関西出身のわたしはとりあえず直撃だけは避けることができたのは幸いだった。
ちなみに、あとで聞いたところによるとビルマ語での年齢別による敬称は、こんな感じになっている。
(男性) / (女性)
ウー / ドォー
------ ↑約40歳以上から老人まで↑ ------
コー / マッ
------ ↑約25歳以上↑ ------
マウン / マァ
------ ↑こども↑ ------
ウー・マウン・コー先生の主宰する日本語学校は、農家の庭先の納屋を借りて、ランタンの明かりの下、勉強するそれはそれは寺子屋のように質素なものだった。その日の生徒は5~6人ぐらいだったか。当時、軍事政権下のもと長年にわたって完全に大学機関がストップしていたので、生徒のなかにはとりあえず大学の再開まで実家に戻って、家の手伝いをする若者や、ホテルの従業員、その他いろいろな若者が、この日本語学校に通ってきていた。また、わずか半年ぐらい学んだだけ!?なのに、日常会話程度に日本語を話す生徒さんがいることに驚かずにはいられなかった。語学の修得が即、自分の生活を切り開く道となるこの国では、学生の勉強する意欲が日本の学生のそれと明らかに異なるのは無理のないことだといえ、ほとほと頭の下がる思いがした。
ウー・マウンー・コー先生自身も、インパール作戦に従軍して現地で戦死された日本軍兵士の遺骨収集の橋渡しをされている方で、大変な親日家であり人格者だった。
日本語学校の授業が終わった後、ウー・マウン・コー先生の提案により、ビルマの天ぷらを食べに行った。
天ぷら屋と言っても、ご覧のように(↑)道ばたに店を出しているいわば屋台というかなんというか・・・とりあえず、銭湯にあるイスのように低い木箱のイスを出してきて腰掛ける。
ブッティージョ(タマネギの天ぷら)、フェアジョ(丸い団子?の天ぷら)、ベガジョ(とうもろこしの天ぷら)*1 など、ご馳走に与る。
その後、何度となくビルマに訪れるも、ウー・マウン・コー先生と会うことはなかった。なんでも体調を崩されたとのことで、メッティーラの方にお戻りになったと人伝に聞いたが、ご健在だろうか?
*1・・・語尾の 「 ジョ 」 という語彙に 「 揚げる 」 という意味があったようななかったような・・・。