最寄りの劇場でリバイバル上映していることを知り、遅ればせながら 『
おくりびと 』 を鑑賞。アカデミー外国語映画部門ノミネート、ACIDシネマグランプリ(2008年)の映画第4位(アカデミー賞と同列に並べるのもどうかと・・・)、聞こえてくる前評判に上がりまくったハードルのなかで否が応でも高まる期待を抱きつつ、はたしてどーだったか?というと、噂に違わずいい映画でした。
オーケストラのチェロ奏者としての職を失ったモックンが、田舎の山形に帰り、就いたのが納棺師というお仕事。亡くなられた方の身体をきれいに拭いて、衣装を着せて、死化粧を施し、柩に納める仕事。「 死 」 によるさまざまな別れのシーンが描かれていく・・・。
印象的だったのが、映画の大半が 「 死 」 に伴う別れを描きながら、同時に 「 生 」 への執着というか、賛歌というか、それを連想させる場面が同時に描かれていたことだ。それはなにかと言うと、これでもか!っていうぐらい間をもたせてむしゃぶりつくように食べる白子であったり、フライドチキンを食べる口元のアップだったり・・・物語の合間に挿入される 「 食 」 のシーンがちょっと生理的に嫌悪感を催しそうなぐらいに生々しく描かれていた。
昔、見たエロビデオのなかで、Hしまくった後に男女2人で鳥のもも肉を食べるシーンがあった。あれも歯茎が見えるぐらいに口元をアップにして撮影していたことを思い出した。映画のなかでも山崎努がちょっと言っていたが、生きることの行為の顕著なものの1つがまさに 「 食べる 」 ことなんだ。納棺師の彼等のすぐ隣りに、「 生 」 がある。
それともうひとつ。モックンが山崎努に連れて行かれて、納棺師の仕事を体験する。ショックを受けて帰宅して、塞ぎ込むモックンは奥さんである広末を求める。ご年輩の観客に挟まれて安穏とシートにもたれて見ていたわたしも、モックンが執拗に広末の乳を揉みしだき、ジーンズを脱がそうとするので、( ´゚Д゚`)ナンデストッ!! と思わず身を前に乗り出した。ここでも、やはり 「 死 」 の隣りに 「 生 」 があった。
とかく、隠蔽しがちな 「 死 」 とそれに纏わる職業や行為が怖ろしいことやけがらわしいことのように扱われるなかで、映画は、そこに踏み込んでいって、それらが日常的な 「 生 」 と地続きなものとして、特別でないことを訴えているように思えた。